歴史的視点について
HISTORICAL PERSPECTIVE
地形と遺構をたどる、
その先に仙台城の歴史が見えてくる。
仙台城は、伊達政宗が青葉山の地形を生かして築いた城です。急峻な崖や広瀬川を取り込み、防御性の高い「戦う城」として始まった仙台城は、時代が平和へ向かうにつれて、藩政を担う城へとその役割を変えていきました。
現在、かつての建物の多くは失われていますが、本丸や二の丸、東丸(三の丸)の地形、屈曲する登城路、積み方の異なる石垣などに、その歴史の痕跡が残されています。
城を歩き、地形や遺構をたどることで、政宗の時代から近代へと続く仙台城の変化と、城づくりの工夫を読み解くことができます。


伊達政宗について
伊達政宗は、仙台城を築いた初代仙台藩主です。1567年に米沢城主・伊達輝宗(てるむね)のもとに生まれ、18歳で伊達家当主となって以降、米沢を拠点に勢力を拡大し、関ケ原の戦いを経て、仙台に移りました。
優れた情報収集力と巧みな駆け引きによって南東北の覇者へと成長した戦略家である一方、茶の湯や建築、工芸などにも深い関心を持つ文化人でもありました。平和な時代のまちづくりを見据えた先見性によって、城下町の整備を進め、現在の仙台へとつながる都市の礎を築きました。築城の歴史
現在の仙台城は、大きく本丸・東丸・二の丸からなる城ですが、すべてが同時期に作られたわけではありません。
伊達政宗は、1600年、関ケ原の戦い直後、上杉氏との戦乱が続く中で、青葉山にあった「千代城」を利用して、1600年12月に城の縄張り(配置計画・設計)を行いました。この時に「千代」を「仙台」に改めたといわれています。翌年1月からは普請(土木工事)に入り、1602年には本丸がおおむね完成し、東丸(三の丸)の整備や城下町づくりも進められました。築城当初の仙台城は、本丸を中心とする、急峻な地形を生かした防御性の高い「戦う城」として築かれました。
その後、平和な時代を迎えると、1638年に二代藩主伊達忠宗が二の丸の造営を開始し、翌年から二の丸が藩政の中心として使われるようになります。二の丸造営後の本丸は、主に儀礼を行う場などとして使われました。
このように現在の仙台城跡には、戦乱の時代に築かれた城と、平和な時代に発展した城の両方の姿が残されており、「戦う城」から「藩を治める城」へと移り変わった歴史を、城のつくりからたどることができます。
明治以降
明治になると、仙台城は明治政府の管理となりました。本丸の建物は明治初め頃には壊され、二の丸は陸軍の施設として利用されました。太平洋戦争後は一時米軍キャンプを経て、東北大学のキャンパスとなり、現在に至っています。
本丸には、1904年に現在の宮城県護国神社の前身である招魂社が置かれるとともに、1925年には青葉山公園として市民に開放されました。城のつくり|本丸
城の中心である本丸は、東側を広瀬川に面した高さ約80mの断崖、西側を「御裏林(おうらばやし)」と呼ばれる山林、南側を竜の口渓谷とする、天然の地形を巧みに利用した山城です。標高は約130mです。
本丸の広さは東西約250m・南北約270mと諸大名の城郭の中でも最大級であり、築城後まもなく仙台城を訪れたイスパニア(スペイン)の使節ビスカイノは「この城は当国にある最強で最良の城のうちの一つである」と賞賛しています。
現在は、青葉山公園の一部であり、宮城県護国神社があります。城のつくり|東丸(三の丸)
東丸(三の丸)は、本丸の北東に位置する曲輪で、標高は約40mです。東西約140m・南北約120mの広さで、水堀と土塁に囲まれています。
年貢米などを貯蔵する蔵が置かれていたと考えられますが、政宗の時代には庭園や茶室をともなう屋敷がありました。現在は仙台市博物館が建っています。城のつくり|二の丸
二の丸は、本丸の北側、一段低い平坦地に位置する曲輪で、標高は約60mです。二代藩主忠宗により1638年に造営されました。
この場所には伊達政宗の子・宗泰(むねやす)や長女・五郎八(いろは)の屋敷である西屋敷があり、当初の二の丸はその隣に造営されていましたが、四代藩主綱村の時代に西屋敷を取り込む形で拡張されて現在の規模となりました。現在は、主に東北大学川内キャンパスの敷地となっています。城のつくり|登城路
仙台城本丸へ至る登城路には、巽門・清水門・沢門を通るものと、大手門・中門を通るものの、2つのルートがあります。
どちらも江戸時代からのルートですが、なかでも巽門から沢門へ至る登城路は、勾配が急で屈曲があり、途中に直進を遮る石垣や土塁が設けられるなど防御性に富んでいます。地形や道そのものから、仙台城の本来の姿を体感し、仙台城の成り立ちや城づくりの工夫を読み解くことができます。石垣
仙台城では、自然地形を巧みに生かしながら、要所に石垣を配置することで、防御性に優れた城を作り上げています。
一つ一つの石垣の規模はそれほど大きくありませんが、積み石の大きさや加工の程度、積み方、また高さや幅などが多様であり、変化に富んだ石垣群を見ることができます。
これらの違いは、石垣の作られた時期がそれぞれ違うためであり、石垣技術の発展の歴史である一方、度重なる災害に対応しながら復旧を重ねてきた歴史でもあります。
また、石垣の変化は曲輪の大きさにも影響を与えています。本丸北壁石垣は仙台城を代表する石垣ですが、現在みられるものは1668年の地震後に積み直されたものです。それ以前はより傾斜の緩やかな石垣であったため、石垣の上端は現在よりも南側に位置し、本丸の平坦地は現在よりも狭かったと推測されています。城下町と城
政宗は、仙台城とともに城下町の建設を進めています。地名の表記を「千代」から「仙台」に改めたのもこの頃であり、現在の仙台のまちの原点を築いています。
仙台城から広瀬川を挟んだ対岸に城下町を配置して、南北の主要幹線である奥州街道を引き入れ、城から東に延びる通り筋を造り、その2本の主要な通りの交差点を基点にして、町割りを行っています。
文化的視点について
CULTURAL PERSPECTIVE
遺構と出土品から、
伊達政宗の美意識と文化を読み解く。
仙台城には、城としての強さだけでなく、伊達政宗の美意識や文化へのまなざしを伝える痕跡が残されています。
天守を置かず実用的な櫓を配した本丸、豪壮華麗な大広間、城下を見渡す懸造、城内で行われた酒造り。さらに発掘調査では、金箔瓦や陶磁器、ヨーロッパ産のガラス製品なども見つかっています。
建物の多くが失われた今も、遺構や出土品をたどることで、伝統を重んじながら新しい文化を取り入れた政宗の美意識と、仙台に受け継がれてきた文化の一端を感じることができます。


天守のない本丸
仙台城には、築城当初から天守が建てられませんでしたが、小さな城郭では天守に相当する規模の三重櫓が4棟も建てられ、堅牢さを誇っていました。
天然の要害上に実用的な櫓を配置した伊達政宗の城づくりは、戦のない時代を見据えてのことだったのかもしれません。大広間
大広間は、本丸御殿の中心となった建物で、藩主と家臣が対面を行う場として使われました。1610年に完成した大広間は、東西33.5m、南北26.3mの広大な床面積に、格式の高い板葺きの屋根をのせた、城内最大の建物です。
屋内は、全部で14の部屋があり、畳敷き部分だけで260畳を数えました。室町時代の御殿建築を継承したもので、中でも藩主が座る「上段(じょうだん)の間」や、天皇家や将軍家を迎える時に使用する「上々段(じょうじょうだん)の間」は、最も格式の高い部屋でした。
桃山建築の粋を集めた豪壮華麗な建物で、一部残る美術品や発掘調査成果から、往時の内装の一端を伺うことができます。
建物は明治初期に解体されてしまい、見ることはできませんが、遺構表示により、建物の規模や間取りを知ることができます。
懸造
懸造は、本丸の東崖に突き出るように建てられた眺望用の建物で、仙台城を象徴する建物の1つです。簀子(すのこ)縁が張り出し、城下を一望することができました。
伊達政宗の頃から記録にある建物で、戦国時代の伊達氏の居城であった米沢城にも「懸つくり」と称する、類似した建物が存在した記録があります。
明治初期に、本丸にあった多くの建物とともに取り壊されました。造酒屋敷跡
仙台城では、全国的にも大変めずらしく、城内で酒造りを行っていました。
伊達政宗は、1608年に、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の紹介で、当時酒造りの本場であった大和国(現在の奈良県)より職人を招き、城内に屋敷地を与えて、藩主用や城内などで消費する酒の製造を担わせました。
「榧森(かやのもり)」を名乗ることを許され、江戸時代を通じて仙台藩の御用酒造を務め、日本酒のほか、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒、夏氷酒など20種類程度の酒類を製造したと伝えられています。
この榧森家の屋敷と酒造施設があった場所を「造酒屋敷跡」と呼んでいます。政宗の屋敷があった東丸の隣、巽門から清水門に至る登城路脇に位置します。「清水門」の由来となっている湧水が酒造りに用いられました。出土遺物
発掘調査から、伊達政宗が本丸で送っていた生活の一端が分かってきています。
本丸からは、建物を飾った金箔瓦や金銅金具が見つかり、本丸御殿の荘厳さが推測できます。金箔瓦は、軒先の瓦の端に金箔をはったもので、豊臣政権に属した主要な大名の城郭で使われていました。
このほか、織部や瀬戸美濃などの国産陶磁器、景徳鎮などの中国製陶磁器、さらに、ヨーロッパ産ガラス製品なども見つかっています。
茶の湯などの伝統を重んじながらも、海外との交流を通じて、華やかで新しい文化を取り入れた政宗の美意識を伺うことができます。現代とのつながり
現在の仙台には、仙台城や伊達政宗にちなむとされる文化が残っています。
青葉まつりで踊られる「すずめ踊り」は、仙台城築城に携わった石工が踊った踊りに由来するとされるほか、豪華な吹き流しで知られる仙台七夕も、伊達政宗が七夕行事を重んじたことから始まったという説があります。
歴史的な事実と異なることが分かっているものもありますが、伊達政宗に由来する「伊達」を誇りとする文化が、いまの暮らしに受け継がれていることに気づかされます。
自然的視点について
NATURAL PERSPECTIVE
城を守った自然が、
いまも仙台城の風景をつくる。
仙台城の魅力は、城の遺構だけではありません。背後に広がる青葉山、天然の外堀となった広瀬川、南側を守る竜の口渓谷。こうした地形と自然は、城の成り立ちそのものを支えてきました。
本丸跡からは、広瀬川や市街地、その先の太平洋までを望む「杜の都・仙台」を象徴する景観が広がります。
春の桜、夏の深い緑、秋の紅葉、冬の雪景色へと表情を変える自然をたどることで、仙台城が自然とともに築かれ、今もその風景の中に息づいていることを感じることができます。


青葉山
青葉山は、仙台城跡の西側に広がる豊かな森林で、城の背後を守る御裏林として保護されてきました。
モミやブナ、イヌブナなどが生育する森林には、ニホンリスやムササビ、国の特別天然記念物であるニホンカモシカなど多様な動物が生息しています。また、日本で確認されている鳥類の約2割にあたる多くの野鳥が観察されるなど、都市近郊では貴重な自然環境が保たれています。
こうした価値が認められ、青葉山の一部は国の天然記念物に指定されています。
市街地に隣接しながら豊かな生態系が残る青葉山は、仙台城跡の大きな魅力の一つです。広瀬川
広瀬川は、青葉山の東側を流れ、仙台城の重要な防御機能を担っていた川です。
城の東側には深い河岸段丘と急峻な崖地形が広がり、広瀬川とともに天然の要害を形成していました。これらの崖は天然の外堀として機能し、山地から川へ下る複数の段丘面は、本丸・二の丸・東丸(三の丸)などの曲輪を配置するのに適していました。
このような広瀬川中流域特有の地形は、仙台城築城にとって極めて好都合であったといわれています。
また、広瀬川は豊かな水と緑を育み、城下町の人々の暮らしを支えてきました。四季折々に表情を変える清らかな流れと河畔の緑は、都市の中心にありながら豊かな自然を感じさせ、今も市民に親しまれています。
竜の口渓谷
竜の口渓谷は、仙台城本丸跡の南側に広がる全長約3kmの峡谷です。最深部の八木山橋付近では深さ約70mに達し、市街地の近くにありながら雄大な自然景観を見ることができます。
また、渓谷の崖には約500万年前の地層が露出しており、古代の貝類やクジラなどの化石が発見されています。
仙台城の南側を守る天然の要害としても重要な地形であり、歴史と自然の両面から高い価値を持つ場所です。杜の都
本丸跡からの、広瀬川、街路樹、市街地が織りなす眺望は、来訪者に緑豊かな景観を深く印象付け、「杜の都」という呼称の普及に大きく貢献しました。
「杜の都」の呼称は、明治時代に、屋敷林に由来する樹木が市街地の眺望を自然の森のように見せたことに由来し、太平洋戦争後はその役割を街路樹や公園に譲り、現在まで受け継がれています。
本丸跡から広瀬川を挟んで市街地、その先の太平洋を眺める眺望は、現在の「杜の都・仙台」を象徴する景観の1つです。仙台城の四季
春には、本丸の伊達政宗騎馬像と桜が織りなす風景を見ることができ、東丸(三の丸)土塁沿いには美しい桜並木が続きます。
夏には、青葉山の深い緑が訪れる人を迎え、登城路沿いや長沼・五色沼周辺ではさまざまな植物を観察することができます。7~8月頃に巽門登城路沿いに咲くウバユリも見どころの一つです。
秋には、大橋から大手門へ続く道沿いの木々が鮮やかに色づきます。歴史ある石垣や城郭の遺構と紅葉が織りなす景観は、秋ならではの魅力です。
冬には、雪化粧した石垣や青葉山が静かな美しさを見せ、幻想的な風景を楽しむことができます。
豊かな自然環境に囲まれた仙台城は、四季の移ろいとともに表情を変える、杜の都仙台を代表する景観の一つです。









